眠っている猫

【しなくていいこと2】なんでも自分の責任だと思うこと

こんにちは。フタガワです。
また「しなくていいこと」について書きます。
(前回の記事はコチラ→『【しなくていいこと】ダメの否定』

自己責任論が強すぎる日本

日本には何でも自己責任の風潮があります。

引きこもりも、遅刻も、自殺も、本人や家族に原因があると思われていますし、給料が低いのも全て本人のスペックのせいです。

責任の一部は当人にあるかもしれませんが、100%ではないのは自明の理です。

それなのに風潮としては100%自己責任です。

私もそんな風潮の中に育ちましたから、責任感が強いことは美徳だと思っていました。
何かあればすぐに自分の責任を感じます。
なんなら、全然自分が関係ないことでも自分のせいと思ってしまうことすらあります。
たとえば、隣の席の人の機嫌が悪い、とか。
周りの子に聞くと、「私も自分のせいだと感じる」と言っていました。

これはもう、社会の風潮どころではなく、自己責任という病気じゃあるまいか。

そう思うんです。

追い詰められて苦しむ

自己責任の風潮に染まった結果、何でも自分のせいにして、自分を追い詰めて苦しむことになります。

残業時間が殺人的なのも、取引先の人が嫌なやつなのも、チームに遅刻魔がいてその人が皆に迷惑をかけるのも、胃が痛いのも、全部自分のせい。

そうやって自分を追い詰めて追い詰めて、そのうち「死にたい」とか思うようになるんです。

そういうの、そろそろやめませんか?

日本の自殺率が世界トップなことの原因の一つに、自己責任論、あると思います。

そもそも責任なんて誰にもとれない。

私の上司はなかなかチキンな人で、よく、

「そんなことして責任取れるの?」
「俺は責任取れないよ」

と言って、ちょっとでも新しいことをやろうとすると止めに入っていました。
例えばコロナが流行り始めた頃、部分的にリモートに移行しようとした時とか。ほんまに昭和やで。

で、その言葉が私は大嫌いでした。

「責任取れるの?」

って、具体的に何を聞いているのでしょうか?

私に「何を実行可能か」どうか聞いているのでしょうか?

謎ですよね?

「責任を取る」って、めちゃくちゃフワフワしている言葉なんです。

責任をとる、とはどういうことか?

政治家なんかで「責任を取って辞職する」なんていうこともありますが、仕事を辞めれば責任を取ったことになるのでしょうか?

私は、そんなことで責任が取れると思っていません。

私は、責任を取る、とは、相手に与えた損失を保障することだと思っています。

大変なことです。
たとえば数百万の契約を取るのを失敗したのであれば、サラリーマンでも働いて払える額ですから、会社に与えた損失の責任を取ることは可能でしょう。
でも、それが数億数十億になると、平均的なサラリーマンでは一生かけて働いても払えません。
つまり責任が取れません。
しかし別の契約を取れば損失を補填できますから、「責任を取ったこと」になるかもしれません。
辞職するよりもよっぽどマシです。

さらに、お金で換算できることならまだしも、たとえば体と心に傷を負わせた、とか、数字に換算できない場合はどうやって取れば良いんでしょう?
DVとか。
ハラスメントとか。

取れないんです(結論)

ですから逆に、コロナでリモートに切り替えることに反対された時、「社内で問題になった時の責任」を問うてくる上司に対して「コロナで人が死んだら、それこそ絶対に責任が取れない」と思って反発していました。

神じゃないんですから、人の生死に対して責任は取れません。

なんでもかんでも、責任は取れないんです。
というか、責任が取れないコト、がめちゃくちゃ多いんです。

責任を感じることを、やめよう。

というわけで、自分に責任を感じることをやめましょう。

責任が取れないのに自分を追い詰めるって、ただのドMです。

やめましょう。

いったん「責任」という言葉を忘れましょう。

とはいえ、何か不満な状態がある時に「自分の責任じゃないから何もしない」ことをよしとするわけではありません。

「自分に責任がある」と考えるのではなく、「どうしたいのか」「どうやったら変えられるか」だけを考えれば良いじゃないですか。

焦点を「責任」ではなく「未来」に向けるだけ。

現状を変えたい時に、責任についてあれこれ考えるって、意味なくないですか?
つまり、「誰かのせい」「自分のせい」にしても、アクションに繋がらない。

「こうだったらいいな」という未来像を描いて、そのために動くのが、ずっと楽だし、建設的だと思うんです。

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