牢屋の鉄格子

会社に守られて私たちが奪われているもの。人生の機会、経験、そして自由。

こんにちは。フタガワです。
会社に戻るかドロップアウトするか考えていて、あるおじいさんのことを思い出しました。

「おはよーじいさん」の話

昔、兄が就職活動をした時の話です。
筆記試験として、「挨拶をテーマ」にした作文が課されたそうです。
その際に兄が思い出したのは、「おはよーじいさん」のこと。
私たち兄弟が子どもの頃に通った小学校には、毎日校門の脇で「おはよう! おはよう!」と子ども達に挨拶をするおじいさんがいました。
「おはよーじいさん」と呼ばれていて、全校生徒がその存在を知っている状態。
挨拶以上の交流はなかったものの、けっこう親しまれていたように思います。

兄は、「挨拶」の課題で、そのおはよーじいさんのことを書きました。

落とされたそうです(笑)。

聞いた時は笑ってしまったのですが、よくよく考えてみると切り口によっては様々な問いかけができるテーマです。
もちろん表面的におはよーじいさんの話だけを聞くと、今の大人達はナントカ障害とか、精神疾患とか、そういうものを思い浮かべるかもしれません。

その通りかもしれないし、単に子ども好きなおじいさんだったかもしれない。
ただ、そんなおじいさんが校門の前に立っていることは、今の時代だとNGでしょうね。
学校側が放っておかないだろうし、学校が容認しても保護者から苦情きそうですし。

子どもの心に残る風景

ただ、思うんです。
私も兄もおはよーじいさんのことを覚えています。
嫌な思い出ではなく、「いたなーふふふ」という感じです。
たぶん一生、覚えていると思います。

大事なのはそこなのではないかと。

子供の心に一生のどかな風景を残す。

そういう機会を、安心安全を優先するために奪っているのかもしれない、と。

学校と刑務所は似ている

フェンスに囲まれた学校

15年ほど前に、ニューヨークに3ヶ月の間、滞在したことがあります。
街並みも、人も、建物の様子も日本とは違うので、よく散歩をしながら写真を撮っていました。
その時に印象に残った風景として、「鉄のフェンスに囲まれた学校」があります。

歩いていると、道路沿いにフェンスでぐるっと囲まれた広い敷地があり、「何だろう?」と覗き込むと、子供達がサッカーをしていたんです。
学校なんです。

なるほど。
銃社会だから、フェンスが必要なのか。

と手を打った記憶があります。

ただ、その印象は「守られている」というよりかは、刑務所のようでした。

だから理解したんですね。
「守られた場所」と「自由を奪われた場所(刑務所)」は、とてもよく似ているんだ、と。

飼い猫から奪っている生の喜び

うちでは3匹の猫を飼っています。
家でリラックスして寝ている光景はとてもかわいいのですが、時々、少し疑問に思うことがあります。

「家で飼う」ことによって、この子達の幸せというか、生の喜びを奪っているのではないか、と。

家の中での行動は限られています。

寝て、食べて、甘える。
窓から外を見て、時々ベランダを見る。
紐やボールで遊ぶ。

以上。

外で生活する猫とは異なります。

ですから、

自分で食べものを獲得する喜び。
パートナーと出会い子どもを持つ喜び。
空と大地の間で生きているという実感。

そういうものを私は奪っているのかもしれないな、と。

そして、同様のことが会社というシステムでも言えるかもしれません。

私たちは飼われた猫?

・フェンスに囲まれた学校
・飼い猫の一生

そのことを考えると、自然に「会社員」の人生にも視線が及びます。

会社員が得ているもの、奪われているものは何でしょうか?

会社で得ているものと奪われているもの

得ているもの

・毎月の安定した給与
・業務
・業務に必要な備品
・プロジェクト人材の確保(採用)
・確定申告の手間がかからない(副業をやっている人は別ですが)

奪われているもの

・利益
┗決算賞与で利益の一部を還元する会社もありますが、基本的に利益は投資家(オーナー)のもの。
・自分の頭で稼ぐ機会
・時間の自由
┗フレックスタイム制を導入する企業でもコアタイムは存在します。
・場所の自由
┗これはコロナ禍で進んだリモートワークにより、選択の幅が広がりました。

あげるとまだ出てきそうですが、パッと思いつくのはこんなところです。

一定の何かを得られる。
一方で自由が奪われる。

これは、とても刑務所に似ています
刑務所でも、毎日決められた食事が与えられ、運動する機会も与えられています。
図書館で本を読むこともできます。
その代わり、外に出る自由や、好きな時に好きなものを食べる自由、行きたい時に行きたい場所に行く自由が奪われています。

すごく似ていますよね。

進んで刑務所に入るのか?

ただ、私たちが決定的に異なるのは、「何の罪も犯していない」という部分です。
何の罪も犯していないのに、なぜ進んで会社に入るんだろう?

もちろん、今の社会の価値観的にメリットが多いからでしょう。

「守られている」
そうとらえられているから。

ですが刑務所の視点から見ると、「なぜ自ら牢屋の中に?」と、そう思ってしまいます。

再び学校と子どもの話に戻りますが、「守られる」は「機会を奪われる」と同じです。

親に「危ないから」という理由で刃物を与えられてない子どもは、当然ながら刃物を使うことができません。
ですから、刃物を使う力を得る機会を奪われている、とも言えます。

会社に勤める私たちは、一定の給与を与えられることで、自分で稼ぐ機会、自分で考える力を得る機会、を奪われているのではないか。
そう思うんです。

つまらない人生を送るのも自由

生の喜びについて

友人のAさんは独立して会社を興しているのですが、私にこう言ったことがあります。

「極上の喜びは命がけ。必死に、真剣であること。一生懸命であること。真の剣と書いて真剣なの」
「会社員のような、用意された安全と安泰=死なんじゃない?」

生の喜びは、命がけで生きる喜び。
確かにそうなのかもしれません。

豊かさを奪うシステム

そして、会社という「安心・安泰」のシステムは、社会的に受け入れられている物だけど、「生の喜び・豊かさを奪うシステム」なのではないか。

生の喜びは、豊かな経験をもたらします。
それは子どもの頃ののどかな風景でもあるでしょう。
おはよーじいさんのいた校門のような、のどかな風景です。
そんな豊かな経験のない人生は、つまらないと思うのです。

ただ、会社に入るのも残るのも、自分の選択次第です。
つまらないと思うなら、辞めればいいし、つまらないと思っても安全を優先するなら残ればいい。
どちらの人生を選ぶのも、本当は自由。
社会のせいにはできないんです。

読んでいただき、ありがとうございました。

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